ダーク ピアニスト
〜練習曲8 チェーンリング〜

Part 1 / 2


 ロンドンでの生活もすっかり慣れて来た頃。

 ルビーはお気に入りの森を散歩し、広い公園へ出た。豊な自然と散策路、それに続く広場。鳥や小さな生き物も人と同じように公園を憩いの場としている。広場では、家族連れや恋人達、老若男女の人々がゆったりとした時間を共有している。時折屋台のポップコーン売りやアイスキャンディー売りがやって来ると、子供達が集まってそれらを求めた。ルビーも出来たてのポップコーンを1つ買って散歩を続けた。

と、向こうで何やら人だかりが出来ている。時折歓声が上がったり、拍手をしたりととても楽しそうだった。
「何だろう? 僕も行ってみよう!」
ルビーはそこへ走って行くと人並みをかき分けて前に出た。
「わあ! すごいや」
子供達に混じって歓声を上げる。

パフォーマンスを演じていたのは一人の老人だった。彼はカラフルなリングを幾つも空中に放っては手や足や全身を使ってくるくると流れるようにいろいろな技を披露した。時にはまるでチェーンのように一繋がりのように見えたり、回転しながら生き物のように彼の全身を縦横無尽に動き回ったりして見応えがある。大人も子供もすっかり彼の虜である。

老人は、今度は大きなリングを取り出して大技を見せた。その大きなリングに小さなリングをくぐしたり、大小のリングを織り交ぜて飛ばしたり、自分自身もそのリングをくぐってまるで空中を飛んでいるかのように見せたり、ボールやピンや火の点いたキャンドルまでも彼の手に掛かれば皆、従順なしもべだった。ドキドキワクワクの素晴らしいパフォーマンスに誰もが満足し、次々とチップを投げた。たちまち彼の帽子はチップでいっぱいになった。老人はニッコリ笑って愛想を振り撒くと、最後に投げたボールを剣で刺した。すると、ボールは白い鳩に変わって青空へ飛んで行った。拍手喝采されて老人は満足そうに会釈した。そして、人々は口々に褒め言葉を言って帰って行った。老人が道具を片付け始める。が、まだその場を離れない者がいる。ルビーだ。

「今日は、もう終いだ。チップを置いてとっとと帰んな」
老人が言った。
「チップ?」
キョトンとしているルビーに老人は言った。
「ただで見せてる訳じゃない。みんな、金を置いて行ったろう?」
「うん」
とルビーは言って、ポケットから財布を出すと札を1枚差し出した。
「はい。これでいい?」
が、それを見て老人が怒った。
「バカにしているのか? 小僧」
「え? でも、これはおもちゃじゃないよね? ちゃんとギルにもらったんだもの」
「おまえ、この札にどれくらいの価値があるか知ってるか?」
「知らない」
「何だって? 50ポンド札だぞ!」
「50ポンド? それってどれくらい? イチゴキャンディーが何本買える?」
それを聞いて老人は呆れた。
「ふん! どっかの金持ちの小僧か? 胸くその悪い! こいつは返すからとっとと家に帰れ!」
と彼はさっさと身支度をして歩き始めた。と、ルビーがそのあとを付いて来る。

「家に帰れと言ったんだぞ! 何故付いて来る?」
「お爺さんのこと好きだから……。ねえ、僕にも教えてよ」
ニコニコと言うルビーに老人はピシャリと言った。
「今時の若い者は人にものを頼む時の言い方も知らんのか? それとも、おまえさんは外国人か?」
「うん。僕、ドイツから来たの」
と笑い掛けるルビー。しかし、その言葉を聞いて老人の顔色が変わった。
「ドイツだと? わしゃ、ドイツ人は好かん!」
「そうなの? でも、僕、半分は日本人の血も入っているんだよ。母様は日本人だから……」
「何? 日本人だと? わしゃ、日本人などもっと好かん! この世の中でドイツ人と日本人程嫌いなものはないくらいじゃ!」
と怒鳴る。

「嫌い? どうして?」
無邪気な顔で訊いて来る。
「敵だからだ!」
老人は更に口調を強めて怒鳴る。
「敵じゃ! 敵じゃ! 金輪際わしの側に近づくでないぞ!」
「……」
ルビーは泣きそうな表情でその場に佇んでいる。
「どうして嫌いなの? 僕、何かお爺さんに悪い事した?」
「おまえじゃない! だが、おまえの同胞が戦争中にやらかした悪事を見てみろ!」
「戦争って? 僕、わかんない」
「学校で歴史を習ってないのか? もっとも学校の歴史なんてものはそこそこの事しか書いておらんが……」
「学校? 僕、ちょっとしか学校に行ってないの」
「行ってない? 何故?」
「行ってもよくわかんないし、僕……」
何と説明したらよいか、彼にはよくわからなかった。

「ふん。どちらにしても、おまえに教えてやる気はない。自分で勉強するんだな」
と老人はぷりぷりと行ってしまった。ルビーはもう老人を追い掛ける事もなく、いつまでもそこに佇んでいた。手にしたポップコーンを鳩が次々と啄ばんで行ったが、彼はそのままにしておいた。

 「リングが欲しいの」
とルビーが言った。
「リング?」
パソコンで調べ物をしていたギルフォートが振り向く。
「うん。でも、僕のパソコンに出てないの」
「どんなリングだ?」
「えーとね、きれいでいろんな色のがあるんだ。赤いのとか青いのとか緑のとか……それがお日様に光ってキラキラしてね、すごくきれいだったんだ。だから、僕も欲しいんだよ」
「で? 何色のが欲しいんだ?」
「全部。でも、一番いいのは緑なの」
ルビーは老人が空に放る瞬間のリングを想像して言った。
「緑……エメラルドか」

ギルは適当な店でそれらを見つけた。
「これは、なかなかカットがいいな。だが、こういう物は直接見た方が確かなんだがな……」
と言いながら、クリックして拡大した。
「あったの? 見せて」
とルビーが来て言った。
「きれいな指輪……。ギルの目と同じ色だね」
「こんなのはどうだ?」
「エレーゼにあげたら喜ぶんじゃない?」
とルビーが言った。
「エスタレーゼに……?」
彼女の華奢な白い指に、それはきっと似合うだろうとギルは思ってモニターを見た。

「でも、僕が欲しいのはこれじゃないんだ」
とルビーが言った。
「じゃ、どんなのだ?」
「えーとね、もっと大きなの」
「大きい?」
「えーと、これくらい」
胸の前で輪を作って見せる。
「ん? 指輪じゃないのか?」
「違うの。公園でお爺さんがそのリングでいろんな事してたの。投げて取ったり、くぐしたり……」
「ああ。ジャグリングの?」
「ジャグリング?」
「ああ。よくパフォーマーやサーカスのピエロとかがやってる奴だろ?」
「うん! そう!」
「おまえもジャグリングをやりたいのか?」
「うん。やりたいの」
「なら、そこらの物で代用出来るだろ? ボールとかおまえの好きなままごと用の卵とかリンゴとかで……」
「ああ、そうか」
とルビーが言ってパタパタと自分の部屋へ駆けて行った。

「ジャグリングか……」
ギルは呟いて画面を閉じようとした。瞬間、光目に画面の中のリングが光る。ギルは、フト彼女のサイズはどれくらいだろう? と考えて、それから、すぐに首を横に振ると画面を閉じた。
「こういう物は直接店で見た方がいいんだ……」

 それから、ルビーは飽きもせずジャグリングの練習をしていた。始めは全く上手く行かずに癇癪を起こして投げつけたり、泣き喚いたりしていたが、執着心も半端ではなかった。
「そんなに悔しいなら自慢の超能力でどうにでもなるだろう?」
とギルが言ったが、ルビーは頑として譲らなかった。
「そんなのダメだよ! 僕はどうしてもあのお爺さんみたいになりたいんだ!」
と叫ぶだけで始末に終えない。
「なら、好きにしろ!」
ギルが呆れて行ってしまうと、また部屋中に散らばってしまった野菜や果物のおもちゃやボールを集めて練習する。
「アインツ、ツバイ、ドライ……あーん! また落ちちゃった!」

深夜。ようやく静かになった部屋を覗くと、散らばったおもちゃの真ん中で、ルビーはトマトとジャガイモを持ったまま眠っていた。ギルはそっと抱き上げてベッドに寝かす。
「リングか……」
ギルは呟いて窓の外を見た。漆黒の闇の向こうで小さな光がチカチカと光った。一見点滅しているだけのように見えるその光はモールス信号だった。ギルは、カーテンを半分だけ開けると部屋の明かりを2度フラッシュさせて合図を送った。
(ロンドンの街も案外物騒なようだな)
ふと見ると、ルビーは子供のように無邪気な顔をして眠っている。
(本当に……。いつまで経っても危機感のない奴だ。一体、何時になったら慣れるんだ……?)
「慣れる……?」
思わずそう口にしてぎるふぉートは背中にゾクリとするものを感じて凍りついた。

――ぼく、出来ないよ!

不意にそんな声が聞こえた。まだ声変わりもしていない幼い声だった。
(ルビー……)

――どうして殺さなくちゃいけないの? ギル……。だって、本当は誰も殺したくないんだ。誰かを殺すのも、殺されるのも嫌だ! 嫌だ! 怖いよ! みんな、可哀想で怖い……。怖いよ……!

(あれは何時だったろう……? おまえは、まるで小鳥のように怯え、振るえながら許して欲しいと泣いた……)

――なら、何故ここに来た?

(おれは冷たく問いた)

――ぼくは……ただ、ピアノが弾きたかっただけなんだ。ここに連れて来てくれた人は、ぼくに約束してくれた。好きなだけピアノを弾いてもいいって……。サロンで小さなコンサートもさせてくれるって……。約束したんだ。
それに、ジェラードは、約束通り、ぼくにピアノを買ってくれた。そして、本当に好きなだけ弾かせてくれたよ。けど、その代わり、ぼくにその他の事もちゃんと出来なくちゃいけないって……。
だから、ぼく、ちゃんとお勉強もして、ストレッチやいろいろな訓練もちゃんとやって来たよ。ちゃんとギルの言う通りに基礎体力作りや護身術、射撃や水泳やフェンシング、本当に何だってやって来た。射撃は好きだよ。上手く的に当たるとうれしかった。
でも……どうして人を撃たなくちゃいけないの? 何故、超能力を使ってまで人を殺せと命令するの? わかんないよ。ぼくには、まるでわかんない!

――おまえは、『グルド』の組織に入ったんだ。『グルド』は、そういう所だ。法律では裁けない悪を狩る組織だ
――法律では裁けない悪?
――そうだ。世の中には、法律の目をかいくぐり、人々を泣かせたり、苦しめたりして、自分だけが利益を貪り食う残忍で卑劣な虫けらのような奴らが存在する。そいつらは、私欲のために人の努力を踏み躙り、騙したり、罠に落としたりして財産を奪い、場合によっては命まで奪ったり、恥辱を与えたりして平然と生き、喜んでいるような輩だ。人間として最も愚かで恥ずかしい連中さ
――悪い人達なの?
――ああ
――なら、どうして警察は、その人達を捕まえないの?
――警察は、証拠のない奴は捕まえない。そして、たとえ捕まえたとしても裁判では軽い罪になってしまう。奴らはそういう立ち回りが上手いんだ。悪知恵があるのさ。だから、いつも正直にやって来た人が騙され、辛い思いをしても誰も助けてはくれない。だから、おれ達がいるんだ。そういう弱い者達の踏み躙られた恨みを晴らす為にな
――でも……
――でも? おまえにはわからないのか? 何も悪い事をしていないのに、誹謗中傷され、無実の罪によって死んでいった者達の苦しみが……
――わかるよ。ぼくだって、みんなからいじめられたもの……。ぼくが何も悪い事してなくても、いっぱいいじめられたもの……でも……
――でも?
――やっぱり、ぼく……怖いんだ! だから、許して……!

白い毛布の隙間から握ったままの赤いトマトが覗いている。それを、そっと取り上げて枕元に置いた。

――怖い!

その寝顔は、その頃とまるで変わっていないように見える。しかし……。

――ねえ、次は誰を殺す? 

(無邪気な微笑みの仮面の下に隠された顔……。おれがそうさせてしまったのか? それとも、それがおまえの本質だったのか? どちらにしても……おまえはいつの間にか躊躇うことも怯えることもなくなった……)

――奪われたものを全部取り返すまで、僕はやめない。でなきゃ、あまりに可哀想過ぎるから……

「可哀想……か」

――たとえ、この手が汚れても、その血を怖がったりしない。あの時救えなかった母様と僕自身を救うために……次は確実に殺す……。もう躊躇いはない。そして、もう2度と間違えない。あなたもそれを望むのでしょう? 大丈夫。僕はもうちゃんと殺れる

(おれは、奴の中の大切な何かを壊してしまったのかもしれない……)
だが、もう後戻りなど出来ないのだ。ギルはそっと毛布を掛けてやりながら時計を見た。午前2時を少し過ぎている。

――罪深い奴だな。おまえも……

無遠慮に覗き込んで悪友が言った。が、彼はそれを否定する。
(ブライアン……。貴様に一体何がわかる? おれは、趣味でこんな仕事をしているんじゃない。ルビーだってそうだ。奴は、自分自身の正義を貫く為にのみ力を使う。おまえのような生き方は、おれには出来ない)
同じ闇で生きる同胞にしては、あまりに実直過ぎる二人だった。
(ブライアン……)

――おれは自分の力を試したいのさ。
幸い、おれは天涯孤独だ。何処でのたれ死のうと、おれの為に涙を流してくれる奴もいない。
だから、おれは挑戦し続けるのさ。銃も女も極め尽くして肉体の限界に挑んでみせる。おれは、おまえのように頭脳派じゃないんでね。この丈夫な肉体だけがおれの財産なんだ。だから、死ぬまではとことん使ってやろうと思う。
今まで、おれは絶対の自信を持っていたんだがね。もっかのところ、今のおれの最大のライバルは、おまえとおまえのお人形ちゃんさ。
だから、大事にしてやれよ。超能力使いのお人形ちゃんは、どうも身体が弱いみたいだからな。いつかおれが本気で勝負したい奴だからな。それまで大事に扱っててくれよ。人形遣いさん

(勝負だって? じゃれ合いたいなら、もっと別の場所で頼むよ)
ギルはバタンとドアを閉じて出て行った。

 次の日。ギルが仕事から戻ってみると、家の中が賑やかだった。ボリュームいっぱいに上げたダンスミュージックが外まで響き、近所の主婦達が何人か集まって顔をしかめている。ギルは彼女らに軽く頭を下げると家に入った。
「何だ? この騒ぎは」
怒鳴りつけるとルビーとチャーリーがご機嫌なダンスを踊りながら言った。
「あ、お帰りなさい。ギル。僕ね、チャーリーからダンスを教わったんだ。ねえ、すごいんだよ。チャーリーったら何でも踊れるんだ。ねえ、ギルもいっしょに……」
と言い掛けたところで突然音楽が途切れた。
「踊りたいならディスコにでも行って来い。こんな住宅街で近所迷惑だろうが」
ステレオを止めてギルフォートが言った。
「あの、すみません。僕、つい調子に乗って……」
チャーリーが詫びた。

「どうして怒るの? チャーリーはちっとも悪くないんだよ。僕が教えてって頼んだんだ。それにね、チャーリーはジャグリングだって出来るんだよ。それで僕、コツを教えてもらったんだ。ねえ、見て! 上手になったでしょう?」
とルビーは手にしたおもちゃの人形をポンポン放る。スタイルのいい人形の長い髪がバラけたり、スカートがめくれ上がったりしたがルビーはまるで気にしない。
「もういい! それより、さっさとここを片付けろ。足の踏み場もないじゃないか」
見れば、カーペットの上にもテーブルやピアノの上にもおもちゃやCDや紙テープ等が散らかっている。
「すみません。すぐに片付けます」
チャーリーが急いでおもちゃを拾い集めて箱に入れた。
「せっかくステップ踏む足場を作ってたのに……」
とルビーが文句を言う。

「黙れ! そういう事はきちんと後始末が出来るようになってから言え」
と言って彼は階段を上がって行ってしまった。
「ギル、今日はご機嫌斜めみたい」
とルビーが首を竦める。
「それじゃ、僕は、もう帰るよ」
とチャーリーが言った。
「えーっ? もう帰っちゃうの? ギルが怒ったから?」
「ううん。来週提出のレポートの準備をしなくちゃならないんだ。今日は楽しかったよ。ありがとう」
と言ってチャーリーは出て行った。
「バイバイ。またね」
ルビーも言って階段を上がる。

「ルビーか? チャーリーはどうした?」
「帰ったよ」
何となく不機嫌そうにルビーが言った。
「もう、奴とは関わるな」
「何故? チャーリーはいい人だよ」
「いい人なら尚更だ。巻き込みたくないならな」
「巻き込む? また、この間みたいな事が起きると言うの?」
「わからん。だが、あまりいい感じはしない。おれ達は常にそういう立場にあるんだ。注意しろ」
「お友達を作っちゃいけないの?」
「失って悲しい思いをしたくないならな」
「……」
ルビーは窓の外を見て言った。
「僕達、もう普通の人達とは違うんだね……。ううん。僕は、元から普通の人とは少し違っていたみたいだけど……もう、戻れないんだね」
「ああ……」
ルビーは階下へ降りて行くとピアノを弾き始めた。それは、何時になく悲しいメロディーに聞こえた。
「ルビー……」
と、突然、階下のピアノが途切れた。それと同時にギルは銃を掴んで階段を駆け下りた。

窓際に立っていたルビーが振り向いて叫んだ。
「逃げられた!」
指差す先には何もない。が、防弾ガラスは蜘蛛の巣状に見事に罅が入っていた。
「警告か」
ギルは銃を持ったまま周囲を確認する。
「いきなり撃って来たんだ」
ルビーが言った。
「他に変わった事は?」
「わからない。気がついた時には……」
そこで彼はハッとした。
「チャーリーは?」
言うと彼は家を飛び出した。
「おい! 待て!」